モータースポーツの最高峰フォーミュラ1(F1)では、車両性能やレース展開をコンピュータ上で再現・検証するモデリングとシミュレーションの重要性が高まっている。厳格なコスト管理や実車テスト、空力開発に関する規制の下で、限られた検証機会を最大限に生かす必要があるためだ。オラクル・レッドブル・レーシングは、Oracleのクラウド基盤、機械学習機能、生成AI機能を開発とレース戦略に活用している。物理モデルとデータ駆動型モデルの使い分けや、AIと人間の役割などについて、同チームがどのような方針の下に成果を出してきたのか、技術責任者であるマーティン・ガルピン氏が詳細を説明した。
現代のF1では、開発に使える予算に加え、実車テスト、風洞試験、数値流体力学(CFD)計算に割り当てられる資源にも制度上の制約がある。予算上限が設けられ、実車を用いたテストは原則として制限されているほか、空力開発に関わる風洞実験やCFDにも、国際自動車連盟(FIA)が定めた試験量・計算量の枠組みがある。
こうした条件下では、コンピュータ上で設計案の性能を検証し、限られた実験や詳細解析をどの案に振り向けるかが重要となる。車体の空力特性や熱の挙動、タイヤ性能、レース戦略を評価するには、実験機会と計算資源を効率よく配分しなければならない。競争力を高めるには、モデルや解析ソフトウェアを整備し、設計と戦略の判断に生かす力が問われる。
オラクル・レッドブル・レーシングが競争力を維持してきた背景の一つには、モデリングや独自ソフトウェアへの継続的な投資がある。同チームで10年以上にわたり技術開発を率いるマーティン・ガルピン氏は、チームの設計思想について次のように述べる。
「我々の技術部門の全体的な目標は、他から購入することのできないソフトウェア、すなわち競合他社との差別化を図ることができる独自のソフトウェアを自ら構築することです」(ガルピン氏)
同氏は、こうした取り組みは短期間で築かれたものではないとも説明する。
「レッドブル・レーシングの技術的な優位性は、モデリングを重視してきた姿勢に支えられています。私たちは約20年前から、課題をモデル化し、シミュレーションやデータに基づいて解決策を導く文化を育んできました。他チームが5年、10年をかけて追いつこうとしている領域で、私たちには約20年にわたる知見と基盤の蓄積があります」
開発資源に制約がある現在のF1では、限られた検証機会を有効に使い、有望な設計案を見極める力が競争力を左右する。レッドブル・レーシングでは、モデリングと独自ソフトウェアを、その判断を支える仕組みとして活用している。
ピットストップのタイミングやタイヤ選択などのレース戦略は、レース結果に大きく影響する。レース中は、天候の急変、コース上でのアクシデント、セーフティカーの導入、ライバル車両の位置関係など、状況が刻々と変わる。チームはこうした変化を見越し、限られた時間内に戦略の選択肢を検討しなければならない。そのため、レース戦略の立案では、多様な条件を組み合わせたシミュレーションが重要な役割を果たす。
従来、レース戦略の策定には、モンテカルロ法と呼ばれる確率論的な数値計算手法が用いられてきた。これは、天候の変化やセーフティカーの導入、他車の動きといった不確実な要因を条件として織り込み、さまざまなレース展開を繰り返しシミュレーションする手法である。試行回数を増やすほど、各戦略を選んだ場合の順位や獲得ポイント、リスクの推定は安定する。より信頼性の高い比較を行うには、多くの試行を短時間で実行できる計算能力が求められる。チームはその結果を基に複数の選択肢を比較するが、限られた時間内にどれだけ計算能力を確保できるかが、大きな課題の一つとなっていた。
レッドブル・レーシングはOracleのクラウド基盤を活用し、必要に応じて計算資源を拡張できる環境を整えることで、レース中に実行できるシミュレーション数を増やしてきた。ガルピン氏は「戦略プロジェクトにおける取り組みの一部は、計算能力の壁を取り払い、レース中により多くのシミュレーションを実行できるようにすることでした」と振り返る。膨大なシナリオを短時間に処理できる環境が整ったことで、不測の事態が発生した際にも、状況の変化を反映したシミュレーションを実行し、戦略の選択肢を更新しやすくなった。
さらに近年は、モンテカルロ法によるシミュレーションに加え、機械学習を用いたデータ駆動型モデルを取り入れる試みも進んでいる。ガルピン氏は、確率的なシミュレーションに加え、サーキット上での車両の挙動やレース展開の傾向を学習するデータ駆動型モデルの活用も進めていると説明する。
このようなデータ駆動型モデルは、走行中に得られるデータや過去のレースデータを基に、状況の変化が戦略やレース結果に及ぼす影響を予測する。計算基盤やアルゴリズムが進化すれば、複数のレース展開をより短時間で比較し、レース中の戦略判断を支援できる場面が広がる可能性がある。
機械学習やAIの活用が広がる一方、F1の開発では、物理モデルとデータ駆動型モデルをどう組み合わせるかが結果を左右する。物理モデルは物理法則や方程式に基づいて現象を記述・予測し、データ駆動型モデルは観測・実測データから学習したパターンを予測に用いる。後者は、学習データが少ない条件や前例のない状況では、予測の信頼性が下がる場合がある。高い精度と迅速な判断を求められるF1では、AIを導入するだけで判断の質が高まるわけではない。物理的な整合性を確かめながら、両者を適切に使い分ける必要がある。
ガルピン氏は、モデルの使い分けをめぐる難しさを次のように語る。
「物理法則で記述できる問題には、当然、物理モデルを使うべきです。機械学習が真価を発揮するのは、複雑すぎて物理法則だけでは扱いにくい現象から、データを基にパターンを見いだす場面です。ただ、データ駆動型モデルを適用したくても、レースの現場では学習に必要なデータを十分に集められないことが少なくありません。物理モデルとデータ駆動型モデルの間で、どのように最適なバランスを取るか。それが私たちにとって最大の技術課題の一つです」(ガルピン氏)
加えて、レース本番のように短時間で判断を求められる場面では、AIがなぜその提案に至ったのかを把握しにくいというハードルもある。機械学習モデルが提示した戦略案の根拠が不透明であれば、戦略担当者は重要な判断の材料として使いにくい。このため、レースの重要な局面でAIを活用するには、提案の根拠を人間が理解し、検証できることが重要になる。
ガルピン氏は、AIの活用を進める一方で、その判断を過信すべきではないと指摘する。
「学習型モデルにおける重要な課題は、その振る舞いを人間が正しく理解できるかどうかです。緊迫した状況では、提示された選択肢の根拠を十分に把握できなければなりません。学術研究は進展していますが、結果を鵜呑みにせず、批判的に検証する姿勢が必要です。現時点では、提示された選択肢の意味を理解した人間の戦略担当者が、レース中の最終判断を下さなければならないのです」(ガルピン氏)
同氏はAIを、戦略担当者に代わって意思決定する技術ではなく、判断材料を提供して意思決定を支援する技術と位置付けている。
近年の生成AI技術、とりわけ大規模言語モデル(LLM)の普及は、F1チームを支えるソフトウェア開発の進め方にも変化をもたらしている。レッドブル・レーシングの開発現場でも、LLMを活用して社内向けツールの開発を効率化し、エンジニアがデータを扱いやすくするインターフェースの構築を進めている。
ガルピン氏は、「コードを書く作業に要する時間や手間は、ほぼゼロに近い水準まで下がっています」と述べる。一方で、コーディングの効率化は、エンジニアの役割がなくなることを意味しない。要件整理や設計、生成結果の検証、品質・安全性の確保といった能力の重要性は、むしろ高まっている。
「現在の課題は、いかにしてコードを書くかではなく、長期にわたり保守・運用できる信頼性の高いソフトウェアをどのように設計し、責任を持って維持するかという点に移っています。我々が過去10年間にわたり行ってきたソフトウェア開発の作法は、今日行われている方法とは根本的に異なります」(ガルピン氏)
コーディングの効率化が進む一方で、エンジニアには、システムに求める要件を定め、全体のアーキテクチャを構想し、長期運用を前提に品質を担保する能力が求められるようになっている。
同時にガルピン氏は、AIツールへの過度な依存が、若手エンジニアの学習機会を狭める可能性にも言及する。キャリア初期からコード生成AIに頼りすぎると、システムの基本的な仕組みや設計判断の根拠を十分に理解しないまま開発を進める懸念がある。
「キャリアの初期段階でAIに頼りすぎると、自分が構築しているシステムへの本質的な理解が深まらない恐れがあります。現時点で、AIにより人間の役割を単純に置き換えることを前提に採用方針を変えるのは、時期尚早です。ソフトウェアエンジニアの本質的な価値は、記述するコードの行数にあるのではなく、ドメインに対する深い理解と、現実の課題を適切な技術や解決策へ結び付けるにあります」(ガルピン氏)
これらの発言からは、生成AIを単なるコーディングの省力化ツールとして扱うのではなく、仕組みや限界を理解したうえで、課題に応じて使いどころを見極める姿勢がうかがえる。コード生成の効率化が進むほど、ソフトウェアエンジニアには、解くべき課題を整理し、適切な技術を選び、生成結果を検証して責任を持って運用する力が求められる。
物理モデルとデータ駆動型モデルを組み合わせる取り組みは、今後、レース戦略だけでなくマシンの設計・開発プロセスにも広がる可能性がある。ガルピン氏が注目する技術の一つが、流体や熱の動きなどの物理現象を扱う「物理基礎モデル(Physics Foundation Models)」だ。ここでいう基礎モデルとは、多様な条件のデータを用いて事前学習し、複数の物理現象や用途への応用を目指す大規模AIモデルを指す。
大規模言語モデルが文章やコードのパターンを学習するのに対し、物理基礎モデルは、シミュレーションや実験で得られたデータを基に、空気や熱などの振る舞いを予測する。F1では、車体周辺の気流や冷却性能、タイヤや部品にかかる熱の影響を、従来より短時間で推定する用途が想定される。
従来、車体周辺の空気の流れなどを検証する際には、CFD(数値流体力学)をはじめとする計算負荷の高いシミュレーションが用いられてきた。CFDは空気の流れを数値的に計算する手法であり、精度の高い解析には大きな計算負荷を伴う。物理基礎モデルの学習・検証には、CFDの解析結果や実験データの活用が想定される。
物理基礎モデルが実用段階に達すれば、既存の物理シミュレーションを補完し、設計案の検討や検証を効率化できる。たとえば、設計の初期段階で多数の案を比較し、詳細解析に進める候補を絞り込むといった使い方が考えられる。設計案の比較や改良に要する時間を短縮できれば、限られた開発資源をより効果的に配分しやすくなる。
こうした具体的な活用方法は今後の技術成熟度にも左右される。一方、ガルピン氏は、物理基礎モデルの進化が車両設計そのものに大きな影響を与えると見ている。
「物理現象や流体力学を扱う基礎モデルが、言語モデルに近い速度で進化するなら、マシンの設計手法そのものに影響を及ぼします。車両性能の向上という点では、言語モデル以上のインパクトを持つ可能性もあります」(ガルピン氏)
物理基礎モデルを含むAI技術の進化は、F1における設計・開発やレース戦略の進め方を変える可能性がある。ただし、競争力は技術を導入するだけで生まれるわけではない。限られたレギュレーションと時間の中で、モデルが示す分析結果を理解し、検証し、設計やレース戦略に反映できる人材と組織の力が問われる。ガルピン氏が重視するのは、AIを自律的な意思決定者として扱うことではなく、専門家の能力を補い、より良い意思決定を支える技術として活用することだ。
※2026年7月30日に公開されたOracle公式YouTubeチャネルのコンテンツ「AIがすべてを変える:Oracle Red Bull Racingが誇るAIの優位性の核心に迫る」を元に記事化