東日本旅客鉄道(JR東日本)が提供している「Suica」は、人々の日常生活を支える重要な基盤の一つとなっており、登録者数も着実に拡大している。しかし、長年にわたり運用されてきたSuicaは、システムの老朽化や組織の縦割りという課題に直面していた。6月2日にConfluentが開催した「Data Streaming World Tour 2026: Tokyo」の顧客事例セッションで、JR東日本の森敦史氏は、Suicaの進化を阻む組織とシステムの壁、そしてそれを打破するために選定した「Confluent」による新たなデジタルサービス基盤の全貌を語った。API化を進める中で生じた、データがリアルタイムに回らないという根本的なジレンマを、イベント駆動型アーキテクチャがいかに解決するのか。
JR東日本は、1日約1600万人の鉄道利用者を抱える巨大インフラ企業であり、鉄道事業に加えて流通や不動産、都市開発、金融など、広範なビジネスを展開している。その多層的な事業で発生する移動と購買のデータをリアルタイムに活用し、AIと組み合わせて価値を生み出していくことが、今や競争力の源泉となりつつある。
同社のマーケティング本部戦略・プラットフォーム部門デジタルビジネスユニットでマネージャーを務める森敦史氏は、「我々の恥ずかしい部分も包み隠さずにお話しします」と切り出し、こうした文脈の中で、Suicaを起点としたシステムモダン化のリアルな苦労を明かした。
サービス開始から約25年が経過したSuicaは、技術的な課題が顕在化していた。カード内のICチップで情報を管理する仕組みは2万円のチャージ上限やエリアまたぎ制限という制約があり、他社のタッチ決済やコード決済の台頭により無視できない競争圧力も受けていた。こうした危機感から、同社はSuicaを移動の手段から多様な暮らしを支えるデバイスへ進化させる「Suicaルネサンス」を掲げ、システムのセンターサーバー化などの改革に踏み切った。
Suicaを「生活デバイス」化するという目標に向けて、同社は鉄道サブスクリプションや地域連携クーポン、地域密着の「ご当地Suica」といったサービス開発や、2027年春頃までのSuica利用エリア統合などの取り組みを進めている。鉄道サブスクリプションは、定期券とは異なる形で特定エリアや期間の乗車を定額で利用できる新しい料金サービスとして構想されている。しかし、いざこれらの施策を展開しようとした際、自社システムが抱える深刻な課題が明らかになった。
同社には1日1600万人のリアルな乗客がいる一方で、デジタル顧客接点である「モバイルSuica」や「えきねっと」への送客や相互利用といったクロスセルが機能していなかった。森氏は「システムを可視化した結果、それぞれのサービスごとに会員管理や決済機能が個別実装されている現状が浮き彫りになりました」と語る。乗客は同一社内のサービスごとに別々のアカウントを使い分ける必要があったのだ。
この状況は「組織の縦割りの壁がそのままシステムの不整合に反映されていたものです」と森氏は振り返る。さらにオンプレミスで順次実装されてきた肥大化したシステムは個別最適化され陳腐化し、開発や保守作業は手作業中心の煩雑な運用になっていた。他社と比較し、自社は「周回遅れでした」と森氏は率直に語った。
状況を打破するために森氏は、2023年に全体のアーキテクチャ方針書を策定した。APIによる疎結合を基本とし、個別構築されていた会員管理や決済などの共通機能を「デジタルサービス基盤」として切り出し統合を図るアプローチである。
その象徴が、共通の顧客アカウント「JRE ID」だ。JRE IDはすでに約900万人の会員を獲得しており、新Suicaアプリの本格稼働に伴い4000万人規模へと拡大させる計画である。しかし、この共通基盤化を進める中で森氏には新たな「モヤモヤ」が生じたという。システムが疎結合化されても、各システム間でデータがリアルタイムに連携していなかったのだ。
森氏は「従来の業務は1日前のデータを見るバッチ処理で間に合っていましたが、デジタルビジネスではデータの即時性が絶対に必要でした」と当時の気付きを振り返る。データの連携速度が遅ければ、高度な仮説検証を迅速に行うことはできない。API接続だけでは解決できないデータの循環不全が、新たな壁となった。
同社はこの新たな壁も、データコネクト基盤の構築により乗り越えつつある。具体的なユースケースとして、API要求が集中するポイントシステムなどの負荷分散が挙げられる。クラウド上にConfluentを介してデータレプリカを構築し、参照系と更新系を切り離すことで、システムダウンを防ぎつつ高い応答性を維持する。また、JRE IDの顧客情報や規約同意、オプトアウト情報を複数システムへ瞬時に同期させ、法令遵守と顧客体験を向上させている。
さらに、Suicaや新幹線の入出場データをリアルタイムに分析・活用し、従来のバッチ処理によるETL開発運用の負荷削減を目指している。あわせて、これまで多大な時間とコストを要していた大規模なデータ移行についても、新たなデータコネクト基盤を活用することで効率化し、作業を容易にすることも可能だと考えている。森氏は「新しいアプリや決済システムが人間の五感や筋肉だとすれば、データコネクト基盤はこれらを繋ぐ神経系であり、流れるデータは血流そのものです」と表現した。組織とシステムの境界を越えたリアルタイムデータの循環が、3年後を目標に、Suicaを真の生活デバイスへと変貌させる。