ラグビー日本代表の活躍で、国内でのラグビー人気は高まっている。日本ラグビーフットボール協会は、この機運をさらに高めるため、クラウドを活用した新たなメディア戦略を展開している。試合映像の公式映像化で、SNSでの発信やプロモーション活動が活発化し、ファンへの情報発信が強化されている。さらに、AWSのクラウドサービスを活用して、リモートTMO(Television Match Official)やリモートHIA(Head Injury Assessment)の実現を目指している。将来的には、AI技術によるハイライトクリップの自動生成や、選手の安全性を確保するためのデータ分析なども視野に入れている。
ラグビー男子日本代表チームのユニホームの胸には、日本の代表的な花「桜」が描かれ、チームの愛称は「Brave Blossoms(ブレイブ・ブロッサムズ:勇敢な桜戦士)」だ。日本代表チームを統括し、国際統括団体ワールドラグビーに日本国内競技連盟として加盟しているのが、日本ラグビーフットボール協会(ラグビー協会)だ。
協会の活動指針「JAPAN RUGBY 2050」では、ミッションとして「ラグビーが世界一身近にある国へ」を、ビジョンは「世界のラグビーをリードし、スポーツを越えた社会変革の主体者となる」を、そしてターゲットに「再びワールドカップを日本に招致し、世界一になる」を掲げる。2021年から2024年の中期戦略計画では、「協会刷新」「強化」「普及・育成」「リーグ改革」「社会連携」という5つの領域に8つの目標を掲げる。
協会刷新の目標は、「組織基盤の強化」「コミュニケーションの強化」「システム・データ活用の最大化」の3つ。中でもコミュニケーションの強化では、「デジタルプラットフォームの整備、メディア連携により、ラグビー人気を高め、メジャースポーツへと成長させる」ことを目指している。ラグビー競技の活性化でも、デジタル技術の活用は欠かせない。
国内では、前述の日本代表の活動に加え、かつての社会人リーグ「トップリーグ」が進化した「ラグビーリーグワン」、7人制ラグビー、大学、高校、女子代表など、幅広いカテゴリーが存在する。2022年のリーグワン発足に伴い、試合映像の権利は、従来の放送局から、スポーツ放送局ジェイ・スポーツとの事業共創により、ラグビー協会に移行し、公式映像化された。2024年からは、男子15人制日本代表戦の試合映像も公式映像化されている。
公式映像化により、各種SNSでの発信や多様なプロモーション活動が活発に行えるようになった。「物理的な映像メディアの提供も必要ですが、クラウド上でコンテンツを共有することで、より効率的に情報発信できると考え、新たなメディア戦略を進めています」と語るのは、日本ラグビーフットボール協会 メディア事業部門 部門長の室口 裕氏だ。
ラグビー協会は、映像コンテンツの著作権を保有し、主体的に管理することで、試合映像の利用の自由度を高め、プロモーションを促進している。「メディア露出の機会を最大限に創出し、オウンドメディアだけでなく、各メディアへの提供も容易にすることが重要です」と室口氏は語る。
映像素材の商業利用では、履歴を管理し、どのプロモーションでどのように使用したかを記録することで、著作権を遵守し、適切に管理する必要がある。このような体制の構築が不可欠だとラグビー協会が認識し始めたのは、リーグワン開幕に向けた2021年のことだった。映像のクラウド管理と利用の仕組みの中核を担うのが、映像コンテンツのアーカイブシステムである。
メディア戦略の構想実現に向け、室口氏が相談したのはAWSだった。「頭の中にあるイメージを実現するために、AWSの担当者とは毎週のように打ち合わせを重ねました。私たちは技術に詳しくないため、AWSのサポートを受けながら、イメージを具体化していきました」と室口氏は振り返る。
当初構想していた全ての機能が実現しているわけではないものの、既に運用を開始しているものもある。たとえば、クラウドを活用し、リアルタイムにハイライト映像を制作し、各メディアに提供する仕組みは既に稼働している。リーグワンの各チームは、この公式映像を活用して、プロモーション活動を展開できる。
コンテンツの利用プロセスは、まず、試合会場の映像が放送局に送られ、放送局がクラウドにアップロードする。アップロードされたコンテンツをマスターとして、複数のコンテンツをオーケストレーションして編集したり、試合中のさまざまな統計情報(スタッツ)を取得するシステムに連携させたりしている。
さらに、試合映像のライブ配信も実現されている。「ライブ配信は、リーグワンのホームページで、毎週1試合の生配信を23-24年のシーズンで実施しました」と言う。また、コメントを付ける企業と契約し、コンテンツに英語のコメントを付けて海外放送局への配信も実現されている。
このような仕組みの実現では、効率化が重要なキーワードだった。ラグビー協会のメディア事業部門のメンバーは限られており、専任のエンジニアがいるわけではない。運用に関わるのは、3、4人のメンバーであり、運用の手間がかからないクラウドの選択は重要だった。
ラグビー協会では、さらなるメディア戦略の構想も描いている。その1つが、中継で撮影している全カメラ映像のクラウドへのアップリンクだ。これが実現すれば、リモートTMOと、リモートHIAが可能になる。
TMOは、レフェリー資格を持つ者がビデオ映像を確認し、トライ、イエローカード、レッドカードなど、判定が難しいプレーにおいて、レフェリーをサポートし、正しい判定を導き出すシステムだ。HIAは、脳振盪の疑いのある選手を一時退出させ、HIAの専門的な講習を受けた担当者(マッチドクター、チームドクター)が脳振盪の有無を確認するものだ。どちらの判断でも、対象となるプレーの状況を正確に確認するため、さまざまな角度からの映像を見る必要がある。
現状では、試合会場にビデオレフェリーやドクターがおり、中継車などから取得した映像を、複数のスポーツで導入されている審判補助システム「ホークアイ(Hawk-Eye)」を用いて、瞬時に再生し、審査、判断している。同様のことがリモートで実現できれば、レフリングのナレッジ共有や経費削減につながる。
リーグワンの試合は、土曜日と日曜日に開催されることが多く、土曜日に東京の会場でレフェリーを務めた人が、翌日曜日には静岡の会場でビデオレフェリーを務めることもある。そのため、移動の負担が大きくなり、レフリングの評価などに十分な時間を割けないなど、いくつかの課題があった。
TMOは試合の勝敗に大きく影響する。HIAは選手の安全を守り、その結果が試合の勝敗にも影響を与えるため、こちらも極めて重要だ。これらがクラウドを使ったリモート環境でも、現地で行うのと遜色なく実現できるかが課題となる。特にTMOは、該当するプレーがあれば試合を中断して審査を行うため、短時間での判断が必要となり、映像の再生にはリアルタイム性が求められる。
単に巻き戻して再生できれば良いのではなく、レフェリーが見たい箇所を瞬時に特定し、スロー再生やズーム機能などを用いて再生する必要がある。同じタイムラインの別角度からの映像も併せて見比べ、レフェリーの指示の下、ストレスなくできるだけ短時間で行う必要がある。
2024年8月17日に静岡エコパスタジアムで行われた、女子15人制ラグビー日本代表対アメリカ代表の試合において、リモートTMOの実証実験が実施された。静岡エコパスタジアムから4台のカメラの映像をAWSのAmazon S3にアップリンクし、AWS上でエンコーダーとして機能する映像伝送システム「BOLT 6」を用いて映像を確認する。このオペレーションは、東京・青山のラグビー協会オフィスで行われ、TMOが問題なく実施できるかを検証した。
現在、リーグワンの試合は、シーズン中に150試合以上行われる。TMOはホークアイを用いて、全て現地で実施されている。別々の会場で実施されるため、レフェリー間のナレッジ共有は難しい。「レフェリーも悩むことはあります」と室口氏。1箇所でTMOを実施できれば、ナレッジを共有し、試合後にレビューを行うことも可能になる。これにより、より高い精度で判定の公平性を保てるようになる。
また、TMOの環境をリモートに集約すれば、コストの削減や現場作業負荷の軽減にもつながる。現状は、各試合会場にTMOやHIAのための機材を設置し設定しなければならず、中継局側の負担もかなり大きい。
単にリモートでTMOを行うだけなら、たとえば会場と青山のオフィス間をしっかりネットワークで接続すれば実現できる。クラウドを介すことで「映像コンテンツのマルチユースを実現します」と室口氏は言う。AWSに蓄積された映像をTMOやHIAだけでなく、さまざまな用途に利用する。たとえばトライ直後に、トライシーンをさまざまな角度で編集し、SNSなどで発信してアピールできる。
今回の実証実験の結果は良好で、リモートでTMOを行ったレフェリーも現地と遜色ないと評価している。しかし、回線の不調や予期せぬトラブルなども想定し、バックアップ体制をどのように構築するかが今後の課題となる。これらの課題を解決した上で、再来年のリーグワンシーズンまでにはリモートTMOを実現したいと室口氏は語る。
コンテンツのマルチユースでは、AI技術を活用したハイライトクリップの自動生成も視野に入れている。また、映像と選手のマウスピースのデータを組み合わせることで、選手の安全性を確保するためのデータ活用も計画している。具体的には、機械学習やAI技術を用いて、映像とセンサーデータをクラウド上で分析する。
ラグビー協会は、メディア戦略を具体化するクラウドパートナーとしてAWSを選んだ。協会側の担当者は技術に精通しているわけではない。「AWSは、私たちが何をしたいかを伝えれば、それを実現するためにコーディネートしてくれました」と室口氏は語る。ホークアイやBOLT 6など、必要な要素をどのように組み合わせ、仕組みを構築すれば良いのか。テクノロジー製品を単に購入するための提案ではなく、AWSは実現したいことを共に目指し、サポートしてくれたと評価している。
単に映像をクラウドにアーカイブし、共有して配信できるようにするだけであれば、どのクラウドサービスでも実現できるだろう。しかし、ラグビー協会は、アーカイブして利用しやすくするだけでなく、リモートTMOの実現、コンテンツのマルチユースなどを構想していた。そのためには、既にスポーツ業界で実績のある各種アプリケーションやサービスを組み合わせる必要があった。
AWS以外のクラウドベンダーにも相談したが、スポーツ業界の多様なソリューションに精通していなかったためか、積極的な提案には至らなかった。AWSは、ラグビー協会が実現したいことに対し、どのような技術要素やパートナーが必要で、それらをAWS上でどのように連携できるかを理解していた。これは、AWSが世界中でさまざまな製品やサービスと連携し、活用されてきた実績があったからこそ提案できたのだ。
ラグビー協会がAWSを選んだ理由は、技術支援だけでなく、スポーツ業界においてテクノロジーを活用するためのエコシステムの中核を担っている点にあると室口氏は説明する。構築されたシステムは、コスト面でも納得のいくものになっていると語っている。